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マンダラとヨガ哲学

スタジオ入口に期間限定で飾っているマンダラ、多くの方に興味を持っていただけているようで何よりです。

そこで、さらに親しみを持って接していただけるよう、この場でこのマンダラの詳細を、ヨガ哲学の視点からもからめてご紹介しようと思います。

そもそもマンダラとは?

そもそもマンダラは、宇宙・世界のありさまを表したもの、ひいては悟りの境地を表したものとされています。様々な種類のマンダラが存在しますが、当スタジオで飾っているマンダラは、私が通っていた真言宗系の高校の卒業祝いの品として授与されたものです。中央の大日如来を中心に赤、青、黄、緑の各色で表された5躰の如来とそれぞれの如来が象徴する5つの智慧が表現されています。

  • =大日如来・法界体性智(あらゆる物の本質を司る絶対的な智慧
  • =阿弥陀如来・妙観察智(物事を正しく見極める智慧
  • =阿しゅく如来・大円鏡智(鏡のように、物事をありのままに受け入れる智慧
  • =宝生如来・平等性智(好き嫌い、快不快、自分と他人など二元的思考にとらわれず平等に捉える智慧
  • =不空成就如来・成所作智(なすべき事をなすための智慧

ヨガ哲学の説く魂の色との一致

このマンダラで表されている色は、よく調べてみるとヨガ哲学で説かれる”プルシャ“(存在の精神的原理、ひいては魂)の色と完全に一致しています。

  • 白=アートマン(真の自己)
  • 赤=意志、力
  • 青=智慧、直観
  • 黄=親愛、寛容
  • 緑=平穏、安定

白以外の色については、7つのチャクラのシンボルカラーにも含まれていますね。

各色とその意味する言葉が必ずしも一致しているとは言えないかもしれませんが、それでも全く異なる意味合いであるとも言い切れないとは思わないでしょうか?

私にはこのマンダラは「心身のバランスの取れたいのちの理想型」を表現しているように感じられます。

そしてこのマンダラを前にすると、「このマンダラの境地がいつか自分の内にも展開するように今日もヨガに生きるんだ」という気持ちになります。

スタジオにお越しいただく皆様にも是非、じっくりご覧いただき、何かを感じ取っていただければと思います。

sv10s

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とらわれる意識、巡る意識

ヨガも、ピラティスの練習中も、今している動作や姿勢への意識、認識はとても重要です。

その意識とは、どうあるべきものなのでしょうか?

夫々のポーズ、エクササイズにおける意識の向け方を一つずつ検証するとキリがありません(これはレッスン時に少しずつお伝えしていきます)。ですので一番根本的なところだけ少しご紹介しようと思います。

私が経験上感じる、意識の良くない状態と、理想的な状態。それが、夫々タイトルにも表現した「とらわれる意識」と「巡る意識」です。

とらわれる意識

どこか一点にのみ意識がとらわれている状態です。

意識がとらわれる場所は、大きく、強い刺激を発する所であることが多いようです。

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筋肉が辛い、痛い、
呼吸が苦しい、

身体の一部にとらわれると言ったこともあれば、

済んだことに怒り、後悔を向けたり、
先のことを期待したり、悩んだり、

心にとらわれることもあるかと思います。

この点、どこか必要な一点に「集中」することは悪いことではありません。

ですが、他にも意識を向けるべき場所はたくさんあるのに、余りにも強く一か所にとらわれていると、それが出来なくなってしまいます。

「とらわれる意識」のままでは、バランスコーディネーションと言った要素を必要とされるヨガアーサナ、ピラティスの中級以上のエクササイズを上手に行うことは困難です。

集中しつつ、とらわれてしまわない意識の働かせ方が肝要です。

巡る意識

意識が一か所にとらわれることなく、全身を(出来れば全心も)巡る状態を、自分では勝手にこう呼んでいます。

夫々のポーズ、エクササイズでチェックポイントとされている点に意識を絶えず転々と巡回させるイメージです。

一か所にとらわれる場合に比べて、全身を多角的広角的な視点で捉えられるようになります。

私はカナダでヨガのレッスンを受けていた頃、シャバアーサナ(屍のポーズ)を通してこの巡る意識を鍛えられました。

つま先から頭、顔のパーツ一つ一つを呼吸に合わせて順番に、転々とチェックしていくのです。そうすれば、意識が一か所にとらわれることはありません。意識がしっかり働いていると、眠くなることもありません。

さらに意識を転々と巡らせる練習を重ねていくと、そのうち同時にたくさんのパーツに意識を向けられるようになってきます。

喩えるなら、一か所ずつ巡回してロウソクを灯して明るくしていくのが、スイッチ一つで全ての場所に明かりがつく、そんなイメージでしょうか。

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ヨガ・ピラティスでフィジカルな効果をより大きく引き出すために、意識の働かせ方にも、目を向けてみませんか?

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「わたし」を薄める旅、那智勝浦

お休みをいただき、和歌山の那智勝浦に行ってきました。

これまでも祖父母の持っていたたくさんの御守り、御札の類をそれぞれの神社仏閣にお返しすべく、少しずつ旅をしてまわってきたのですが、今回もその一環です。

御守りをお返しするのは那智の瀧をご神体とする飛瀧神社。ですが同じ那智山には、人を導く神の使い「八咫烏(やたがらす)をお祀りする熊野那智大社があります。

ということで?今回は特に、八咫烏や熊野那智の神仏に導いていただく気持ちで、いつも以上に「わたし」の拘りや計画を持たずに旅をしたつもりです。

「わたし」が思考の数珠つなぎ、頭の中での独り言をやめることで、、、

五感が研ぎ澄まされて、那智をはじめ和歌山の自然のありのままの神々しさを深く味わうことができたように思われます。

古木の冷たい樹皮の奥から伝わる温もり、
冬の瀧の音の底に聴こえる静けさ、
口に含む水の冷たさに隠れた柔らかさ、
暗い森に差す黄金色の光、
御瀧の足下を飾る虹、

何か考え事をしていたら、先入観を持って向き合っていたら、おそらくそれらに気づくことはできなかったはずです。

このお話、ヨガや瞑想を練習していただいている皆さんはすぐさま、「わたし」を薄めるというのが、普段の練習のときの心の持ち方と同じであることを見抜かれたことと思います。

「わたし」が全開だと、、、

頭や心は、身体に命令し、呼吸にも言うことを聞かせようとし、

結果として頭と心も休む暇がなくなってしまいます。

そうじゃない、ですよね。

「わたし」が薄まり、命令をやめれば、、、

頭と心は休息できます。

身体と呼吸はありのまま、自然体になることができます。

そして考え事や先入観を持たず、リラックスした心で、ありのままの身体と呼吸に意識を向けてみて下さい。

よりよい動き、元気、癒し、くつろぎ、

「わたし」を離れた身体と呼吸が、「わたし」が求めてやまなかったものへと導いてくれることに気づけるはずです。

  • 誤ったエゴをもって身体を見る者は、「自分が行為している」と想像する(バガヴァッド・ギーター3・27より)

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沢庵和尚に出会う旅〜不動智神妙録リプライズ

お休みをいただいた折、出石に日帰りで行って来ました。

出石は私が尊敬する禅僧・沢庵和尚の出身地。

沢庵和尚所縁の宗鏡寺(すきょうじ)というお寺があって、そこで沢庵和尚の手植えの椿、造ったお庭、隠棲した投淵軒を見学し、お墓をお参りして、当地でしか味わえない沢庵和尚の人となりに触れて来ました。

随分前に沢庵和尚の著書「不動智神妙録」についての記事を書きましたが、今回の訪問を機に、出来る限り現代語訳に頼らず原文のままで再読してみました。

やっぱり、珠玉の教えに満ちています。

  • 葉ひとつに目をかけずして、一本の木に何心もなく打ち向かひ候へば、数多の葉残らず目に見え候、葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は見えず。
    • (葉ひとつに目を凝らすのではなく、一本の木に向かいなされば、数多の葉は残らず目に見えなさるでしょう、葉ひとつに心をとられなされば、残りの葉は見えません。)
  • 心を何処に置くべきぞ。我答へて曰く、何処にも置かねば、我身に一ぱいに行きわたりて、全体に延びひろごりてある程に、手の入る時は、手の用を叶へ。足の入る時は、足の用を叶へ。目の入る時は、目の用を叶へ。其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるなり。
    • (心を何処に置くべきでしょう。私が答えて言ったのは、何処にも置かねば、我身いっぱいに心が行きわたって、全体に延びひろがって心が存在します。そうなると手が必要な時は手が、足が必要な時は足が、目が必要な時は目が働きます。そんな風に必要な時に必要な所が働くようになるのです。)
  • 唯一所に止めぬ工夫、是れ皆修行なり。心をばいつこにもとめぬが、眼なり、肝要なり。いつこにも置かねば、いつこにもあるぞ。
    • 一つの事のみに心を止めない、とらわれない工夫、これが修行です。心を何処にも止めないことが肝要なのです。何処にも置かなければ、何処にでもあるのです)
  • 敬の字の心は、心の余所へ行くを引留めて遣るまい、遣れば乱るると思ひて、率度も油断なく心を引きつめて置く位に候是は当座、心を散らさぬ一旦の事なり。常に如是ありては不自由なる義なり
    • (心を余所に遣ってはいけない、遣れば乱れる!と思って少しの油断もなく心を引き止めておくのを「敬の字の心」と申します。これは、心を散らさないための当面の間の手段です。常にこのようであっては、不自由です)

私の蛇足な現代語訳もお付けしてしまいましたが、どうでしょうか、ヨガにもピラティスにも坐禅や瞑想にも、皆さんがなさるお稽古ごとやお仕事にも、そっくりそのまま当てはまりはしないでしょうか?

文書だけでもこの説得力、当時(江戸時代初期)直接会った民衆や大名、将軍、あらゆる階層の人々から絶大な帰依を受けたというのも納得、と個人的には思ったりします。

レッスンでは沢庵和尚のお言葉もお借りしつつ、今後とも心と身体の本質に触れるヨガ・ピラティスのひと時をお届けしたいと思います。

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プラユキ・ナラテボーさんの『「気づき」の瞑想を生きる』

タイで出家してお坊さんになられた日本人、プラユキ・ナラテボーさんの本『「気づきの瞑想」を生きる』を読みました。

タイ古式マッサージを本場バンコクで二度に渡って学んだ者として、そしてヨガや禅を通して瞑想、坐禅を実践する者として(タイ訪問時にはタイ仏教式の瞑想もやりました)、「タイ」「瞑想」「気づき」というキーワードに興味をひかれるものがありました。

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