沢庵和尚の教えから考えるトレーニングの在り方

バガボンドでの沢庵和尚の味のある言葉の数々に心うたれて、ついにリアル沢庵和尚がお書きになった『不動智神妙録』に目を通しました。

この書簡は、沢庵和尚が柳生但馬守に宛てたもので、仏法の立場から剣を説き、剣に生きる姿勢を説いた「剣禅一致」を説くものとされています。

確かに、兵法家として、そして為政者としての立場にあった柳生家が経験したであろう立ち合いという実戦の場、政治という実戦の場を想定した、極めて実戦的な心の置き方が記されています。

また、そうした実戦的な心の置き方を実践できるようになるまでのプロセスの一端も、わずかではありますが極めて核心をついたところが述べられています。

この『不動智神妙録』が、トレーナーにとって、そして武道でもヨガでも、あるいはどんなスポーツでも芸術でも、一心にその道を進む人にとってどんな意味があるのか、私が感じられた範囲でちょこっとシェアさせていただきます。

<理想は千手観音の境地>
沢庵和尚は、心の理想の境地は千手観音のようであるべきだと言います。

一本一本の手に心を止めることなく、それぞれを自由自在に使いこなせること。

心をどこに置くべきか、どのように置くべきか、という事は一切考えずに、どこにも止めない。

そうすることで却って、心というものは全身にくまなく行き渡るのだ、と言います。

少し前にお話した、無心、というものの一形態と言う事もできるでしょうか。

私には、ピアニストが両手の指、そして足を使って自在に音楽を奏でる様子、ドラマーが一心不乱に、それでいて正確にビートを刻む様子はまさに千手観音のように思えるのですが、彼らは千手観音の境地で演奏されているのでしょうか。非常に気になるところです。

そして、やってはいけない事として、迷うこと、一つの事に気を取られることを挙げています。

ただし、この千手観音の境地はあくまで名人・達人の境地。そこに至るためには、そこに至るための修行方法が必要です。

<技を磨くこと、放心を求めること>
初心者、修行中のうちからいきなり心をどこにも止めないでいては、知らないうちに心は遥か彼方に遊びに行ってしまって二度とその道に帰って来なくなってしまいます。

そこで沢庵和尚は孟子から引用して、「放心を求めよ」と言います。

これは、その道から離れてしまわないように、心を常につなぎ止めておけ、という事です。

そして同時に、事(わざ)之修行をしっかりすることが初心者には肝要であることも説かれています。

事(わざ)というのは、技のこと。体の使い方を一つ一つ順を追って覚えることです。

体の一つ一つの部分を思い通りに使いこなせるようになってこそ、千手観音のように千の手をそれぞれバラバラに自由自在に使いこなせるようになるのだと言います。

これは、ピラティス等で体のパーツごとの動作練習をしてから全身のコーディネーショントレーニングに移る、というようなプロセスに通じているようにも思えます。いきなりコーディネーショントレーニングを始めても、十分に出来ない動作があれば、繋がりのある動作、意味のあるトレーニングにはなりませんよね。

また、書道の「真書・行書・草書」のプロセス、居合の基本形と本居合というのも当てはまるように思われます。

何にせよ、千手観音の境地に至るには、最初のうちは多少窮屈な思いはしなくてはならないようです。ですが、この放心をつなぎ止めている間にしっかりと技の修行を行い、そうした修行を通してその道を好きになることができれば、放し飼いにした犬猫がキチンと家に帰って来るように、放心をそのままにしたって決して失うことはない、と言います。

<私たちの剣禅一致>
冒頭でもお話ししましたが、『不動智神妙録』は沢庵和尚が将軍家兵法指南役・柳生但馬守に宛てた「剣禅一致」を説く書簡です。

剣の柳生家に宛てた書簡だからこそ、剣と禅を重ねるように書かれたのだと、私は思います。

「剣」を柳生家の本分として、そして「禅」を人間として、天地の一員として歩むべき道として。

◯禅一致

この◯の中に、剣ではなく私たちが自分の本分、進むべき道と思うものを入れて(滑禅一致でもいいし、音禅一致、踊禅一致とかもあると思います)、千手観音の境地を目指して歩んで行く姿勢が、私たちの進む道、そのトレーニングを有意義なものにしてくれるものと思うのですが、いかがでしょうか?

合掌

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