今週から当スタジオの改修工事が始まりました。
それに先立って、家具を始め様々なものの運び出しや処分、その仕分けをする必要に迫られました。
いわゆる「断捨離」というやつですね。
運び出して取っておくか、それとも捨てて処分するか。
この判断、有名なお片付けの専門家の方は「ときめく/ときめかない」で行うことを提案されているそうですね。
自分の所持品であればそれも良いと思いますが、今回のスタジオの場合は、私の祖父母の所持品だったので基本的には「ときめく/ときめかない」の判断基準は馴染まないものばかりでした(それでも一部、曽祖父の着物などはサイズぴったりでときめいたりもしましたが)
では、何を基準に仕分ければいいのか。ちょうどそんなことがあった後に坐禅会で全く同じ話題を参加者のお仲間と話し合うことがありましたので、その時に私の中で浮かんだ考えをご紹介したいと思います。
捨てる私を縛るもの
本当であれば、処分してしまいたい。でも、捨てられない。この考えは、何処から来るのか?
- もったいない、という気持ち
- 捨ててはいけない、という強迫観念
私の場合は、これらが大きな原因だったように思います。
祖父母、曾祖父母の所持品なので、古いものが多い。もったいないという気持ちが湧いてきます。同時に、自分のものではないので、勝手に捨ててはいけないのではないか、という強迫観念も湧いてきます。
もう「ときめく/ときめかない」の話ではなくなってきて、下手をすると「罰があたる/あたらない」という話にもなってしまいそうな、そんな感じです。
無常という、解放
その時に、最終的に私が仕分けの判断基準としたのは「今後使うか、使わないか」でした。
「使う、かもしれない」は、無し。
明確に、こういう時に、こういうことに、使う。手に取ってみて、そのものの使いどき、使い所がはっきりイメージできるものだけ残し、後は処分してしまいました。
そのことをお仲間にお話していると、それが禅で言うところの「無常」というやつなのでは、という話に。
家具にしても、食器、衣類にしても、それぞれの役目があります。ものをしまったり、食べ物を乗せたり、人に着られたり。
でも、永遠にその役目を担い続けるわけではありません。どこかで、その役目を終える時が必ず来ます。
古くなったり、壊れてしまったりした時…
最愛の持ち主が居なくなった時…
用をなす機会が無くなってしまった時…
この「無常」という考えのおかげで、処分し終わったものの、余りにもたくさんのものをバッサリと処分してしまい、若干のモヤモヤ感が残っていた私の心は完全に解放されました。
逆の立場でも「無常」を前提に
このスタジオ断捨離エピソードと坐禅会でのお話は更に、自分が誰かに何かをプレゼントする場合のことを考えるきっかけも与えてくれました。
「無常」を前提にプレゼントするようにしたい、ということです。
手作りはステキだけど、余りにも「手作りで、心こめて、あなたのために、頑張ったんだ!」を強調すると、捨ててはいけないという強迫観念を植え付けかねません。
消えて無くなる食べ物や飲み物の方が良い、というわけでもありません。
残るものでも、手作りでも、大丈夫。あなたにとって役目を終えたら、手放してもらって構いませんよ、誰か必要としてくれる人に譲ってもらっても、土に還してもらっても構いませんよ。
そんな気持ちでプレゼントするのであれば、そしてできれば、そんな気持ちをソフトに相手に伝えることができれば、「無常」という真理の中で、自分も相手も束縛なく、心からそのプレゼントを楽しめるはずです。
思えば、ものに限らず一切の事物に、この「無常」という考えは当てはまるもの。このSeed Trainingというスタジオも、皆様とのレッスンさえも。
ですが、その「無常」のレッスン時間の中で、存分にヨガ・ピラティス・タイ古式マッサージを通して、カラダとココロ、そしてご自身のこと、より深く知っていただければと願ってやみません。
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