ヨガ哲学の目指す視点は、二元的思考(dualism)の世界を離れた視点。これを、タマス(暗質)、ラジャス(激質)に対するサトヴァ(純質)という言葉で表現したりもしますし、陰ヨガの陰陽理論では、陰と陽の境の道(Dao, またはTaoと読みます)と表現したりします。言い換えると、
- 「勝ち」か「負け」かでなく、「勝ち」でも「負け」でもない
- 「善」か「悪」かでなく、「善」でも「悪」でもない
勝ち負け、善悪といった決め付けをしない視点であり、姿勢。そう捉えていただいてもいいかと思います。
これに関して、坐禅会でこんな事がありました。お坊さんがされていたのは仏教の「不浄」のお話。
不浄というのは、浄らかではない、という意味。日常の価値観や概念では、あれが綺麗、これが浄らか、といった判断が下されますが、仏教ではそれらは全て我々の思い込みで、実際には全てのものは不浄、すなわち綺麗でも浄らかでもないと言っています、と。
このお話に対して、一人の参加者の方がこのように質問されました。「じゃあ、仏教では全てのものは汚いっていうことですか?それって、ネガティヴじゃないですか?」と。
それに対してお坊さんの方は「え?そうでしょうか?」と答え、私たちの身体を例に挙げて不浄の説明をお続けになり、、、という形で暫くやり取りが続きました。
その間お二人の問いのやり取りを横で興味深く拝聴しながら、私にはふと下図のようなイメージが頭の中に浮かび上がりました。なんか高校の数学で出て来たような図ですね。
この四角形を私たちの心とお考え下さい。その中に「綺麗」という価値観と「汚い」という価値観があります。
おそらく質問された方の心の中では、不浄=綺麗ではない=汚いということで、ネガティヴなイメージに繋がってしまったのかな、と思われます。
こんな風にも表現できるかもしれません。「綺麗」か「汚い」という2つしか選択肢がない状態。なので「不浄=綺麗ではない」と言われると、不浄なものの持っていきどころは「汚い」の枠より他はなくなってしまいますよね。
ところが、最初の図には「綺麗」でも「汚い」でもない大きな空白部分があります。
お坊さんのお話されていた一切のものは不浄であるという仏教の教えは、この空白部分に目を向けなさいという教えではないだろうか、と思いました。
お釈迦さんが説いたとされる「中道」(両極端に走らない)と通じる意味合いでの「不浄」なのでは、と。
ヨガの、二元的思考の世界を離れた視点・境地とも通じるものを感じます。
あらゆる場面で「二極化」の拡大が進んでいるとも言われる今日、上図の空白部分に当たるスペースはグッと小さなものになり、その価値も、存在すらも認められにくくなっているかもしれません。
でも、ヨギとして、坐禅をさせていただいている者として、二極化の隙間の小さな空白部分にこそ、安心や平穏、満足、救い、あらゆるポジティブの種があることをご紹介したいと、私は思っています。
ヨガの、メディテーション(瞑想)ではないポーズの練習を通してでも、もちろん、ピラティスの繊細なボディーコントロールを通してでも。
力みすぎたり、体にアタマの言う事を聞かせようとしすぎたりするのでもなく、
体も意識も、脱力やリラックスを超えてダラっとさせてしまうのでもない、
そんな練習をしながら。
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