沢庵和尚に出会う旅〜不動智神妙録リプライズ

お休みをいただいた折、出石に日帰りで行って来ました。

出石は私が尊敬する禅僧・沢庵和尚の出身地。

沢庵和尚所縁の宗鏡寺(すきょうじ)というお寺があって、そこで沢庵和尚の手植えの椿、造ったお庭、隠棲した投淵軒を見学し、お墓をお参りして、当地でしか味わえない沢庵和尚の人となりに触れて来ました。

随分前に沢庵和尚の著書「不動智神妙録」についての記事を書きましたが、今回の訪問を機に、出来る限り現代語訳に頼らず原文のままで再読してみました。

やっぱり、珠玉の教えに満ちています。

  • 葉ひとつに目をかけずして、一本の木に何心もなく打ち向かひ候へば、数多の葉残らず目に見え候、葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は見えず。
    • (葉ひとつに目を凝らすのではなく、一本の木に向かいなされば、数多の葉は残らず目に見えなさるでしょう、葉ひとつに心をとられなされば、残りの葉は見えません。)
  • 心を何処に置くべきぞ。我答へて曰く、何処にも置かねば、我身に一ぱいに行きわたりて、全体に延びひろごりてある程に、手の入る時は、手の用を叶へ。足の入る時は、足の用を叶へ。目の入る時は、目の用を叶へ。其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるなり。
    • (心を何処に置くべきでしょう。私が答えて言ったのは、何処にも置かねば、我身いっぱいに心が行きわたって、全体に延びひろがって心が存在します。そうなると手が必要な時は手が、足が必要な時は足が、目が必要な時は目が働きます。そんな風に必要な時に必要な所が働くようになるのです。)
  • 唯一所に止めぬ工夫、是れ皆修行なり。心をばいつこにもとめぬが、眼なり、肝要なり。いつこにも置かねば、いつこにもあるぞ。
    • 一つの事のみに心を止めない、とらわれない工夫、これが修行です。心を何処にも止めないことが肝要なのです。何処にも置かなければ、何処にでもあるのです)
  • 敬の字の心は、心の余所へ行くを引留めて遣るまい、遣れば乱るると思ひて、率度も油断なく心を引きつめて置く位に候是は当座、心を散らさぬ一旦の事なり。常に如是ありては不自由なる義なり
    • (心を余所に遣ってはいけない、遣れば乱れる!と思って少しの油断もなく心を引き止めておくのを「敬の字の心」と申します。これは、心を散らさないための当面の間の手段です。常にこのようであっては、不自由です)

私の蛇足な現代語訳もお付けしてしまいましたが、どうでしょうか、ヨガにもピラティスにも坐禅や瞑想にも、皆さんがなさるお稽古ごとやお仕事にも、そっくりそのまま当てはまりはしないでしょうか?

文書だけでもこの説得力、当時(江戸時代初期)直接会った民衆や大名、将軍、あらゆる階層の人々から絶大な帰依を受けたというのも納得、と個人的には思ったりします。

レッスンでは沢庵和尚のお言葉もお借りしつつ、今後とも心と身体の本質に触れるヨガ・ピラティスのひと時をお届けしたいと思います。

sv10s

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